人は傷を知るたびに強く優しくなれる 涙のあとの真実 かけがえない今を生きてる

a33com2007-01-15
ル ’ー’リ<ありがとう
川o・-・)<ありがとう



大阪に行ってきました。


13日夜から高速バスの旅で14日早朝の大阪入り。
ハロショやらグッズ購入やらだけでも結構暇はつぶれて後は昼夜2公演参戦すれば夜には再びバスに乗車。本日15日朝7時34分の熊本交通センター着で7時40分発の路線バスに乗り換え家にも帰らずに出社。8時過ぎには会社に着いて思ったより余裕で間に合ってしまったということで、今年はこのパターンでの大阪遠征もアリかな?とか思いもしましたけど、流石に今日一日の肉体的精神的辛さは尋常ではなく、ここまで自分を追い込むのはやっぱり宜しくないな、と思った次第。


そんなわけで、今とにかくキツクテ眠くてたまらないので、今日のところはひとつだけ


自分の見た範囲での、昨日の吉澤ひとみさんのコトなど・・・・




何も知らなければ何かあったとは思わなかったに違いない−


普段通りの吉澤ひとみ
明るい笑顔と力強い煽りとキレのあるダンスと暖かい眼差しと−全てがいつも通りの吉澤ひとみ


ステージが熱を帯びている間中、自分は彼女の抱えているであろうモノの存在を忘れていました。
それは勿論、他に心を注ぎたいメンバーがいたための薄情さであるということは否定できません。
それでも、特に昼公演の冒頭などは、やはりよっすぃーの事が気になって、彼女に注目したりしていた自分でした。
でも、そこで登場した彼女のその笑顔もパフォーマンスも、そして「卒業の報告」も、全てはそこに「それ以上」のものを感じさせないよっすぃーであったために、その後の℃-uteの時間以降、特別な目で吉澤ひとみに注目することをやめてしまいました。


それは、そうすることこそが彼女のその姿に答えることだと思ったから。


彼女の望みは、我々観客にこのコンサートを楽しんでもらうこと。そんな特別な視点に後押しされることなく、あくまでも観客に楽しい時間を提供すること。そうであるんだろうと思ったから。
その為に彼女はステージに立つことを選択したんだと思ったから。


だから自分は、勤めて普段どおりのスタンスでのハロコンの観客となって、その時間を楽しみました。


よっすぃーに負けない位の笑顔で。


だからね、スゴク楽しいコンサートでしたよ。汗もたくさんかいて、軽く足つったりもして。今もう少し筋肉痛トカ出てきてるくらい。全身全霊で楽しむことが出来たコンサートでした。



普段通り。


そんなハズはないんだよね。心の中なんて見えないケド、でも、絶対「普通」なワケはないのは容易に想像できる。


それでもあれほどまでに「普段通り」に見せてしまう。


それが吉澤ひとみの強さなんだな、と。



公演前、彼女が出演するって話しを聞いたときは、「頑張りすぎなくてもいいのに」って思いました。それはきっと、そうやって頑張りすぎている彼女の姿を見ることが痛々しく感じるであろうと想像したから。

でもね。
結果から言えば、それは浅はかであったとしか言いようがない。そこにあった吉澤ひとみのその姿は「痛々しさ」とは真逆の「力」に満ちていたから。


昼公演も夜公演も
終演後に会場の外でインタビューしていたマスコミの皆さんには肩透かし状態だったに違いない、「特別な何か」は存在しなかった2公演。


でもきっと、この日のこの「コンサート」を、そうやって心置きなく「ハロコン」として、「ワンダコン」として楽しむことが出来た事実そのものが、吉澤ひとみの強さの証。


だからきっと、夜公演の幕が下りたその後に会場に広がったあの「よっすぃーコール」は、そんな彼女への「感謝」の具現だったんだろうと思う。
哀れみとか励ましとか、そんなものよりもきっと、彼女が見せ付けた「強さ」への敬意と感謝の表れだったんだろうと思う。


先に言ったように、ライブの間中は彼女の抱えているモノのことをすっかり忘れていた自分でしたけど、このよっすいーコールに声を合わせている時間、不意に目頭が熱くなってしまいました。


スゴイよよっすぃー
あんたホントに凄いよ、って。


ありがとうよっすぃー
ホントにありがとうよっすぃー、って。



なんだか報道的には、「気丈に」「涙も見せずに」「プロ根性で」みたいな方向でまとまっていたみたいだけれど、そんな表層的なものではない、彼女にしかわからないもっともっと深い想いがそこにあったんだろうな、と、今思い返してみるとそんな気がします。




名古屋までの1週間。
他のお仕事のコトはわかりませんケド
出来うる限りゆっくりと、心を休ませて欲しいなと思います−